大木あまりプロフィール
昭和十六年 六月一日 大木惇夫・幸の三女として東京目白に生まれる。本名は章栄(ふみえ)。
大木敦夫「戦友別盃の歌」 昭和17年11月
「海原にありて歌える」 より
言うなかれ、君よ、別れを
世の常を、また生き死にを
海原のはるけき果てに
今や、はた何をか言わん
熱き血を捧ぐるものの
大いなる胸を叩けよ
滿月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔いて勢(きほ)へよ
わが征くはバタビヤの街
君はよくバンドンを突け
このゆうべ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん
言うなかれ、君よ、わかれを
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを
昭和十八年 栃木県安蘇郡田沼町に疎開
あなたがラインの赤い缶詩
昭和二十三年 田沼小学校に入学。友達とたばこ畑に囲まれた墓場で鬼ごっこをしたり、姉たちと秋山川で石蹴りの石を探したり、初夏には麦畑で麦の茎を抜いて麦笛を作ったりした。今でも麦畑の青いうねりの中の黒穂の美しさを鮮明に覚えている。茎を抜いて吹くと音色が遠くから聞こえてくるようで寂しかった。ゆるやかに流れる秋山川やたばこ畑や麦畑が私の原風景である。
昭和二十四年 小学二年生の時、東京都品川区立延山小学校に編入。
昭和二十五年 三年生の時、俳句の宿題に困り果て、父が教えてくれた芭蕉の句<旅に病んで夢は枯野をかけ廻る>という句をまねて <星をみて木馬は夢と駆け廻る>という句を作った。宿題は<羽音させ山の彼方へ雁帰る>という句を出した。これが俳句との最初の出会いだった。しかし、短詩型への興味はまだなかった。そのころの私は時代劇に夢中で、ことに捕り物帳が好きだった。「鶉の左平」という目明かしを主人公にした捕り物帳の小説?を藁半紙に挿絵入りで書いていた
謎の本の最高の作家は誰ですか?
昭和三十二年 頌栄女子学園高校に入学。下の姉の影響で油絵に興味を持つ。絵画部に入り猫の絵ばかり描いていた。高校三年の時、上の姉が買ってくれたブリューゲルの画集に感動して美大に行く決意をする。
昭和三十六年 武蔵野美術大学(当時は武蔵野美術学校)に入学。
昭和三十九年 大学三年の時、交通事故に遭って四力月入院。退院後、古美術研究のレポートを提出するため奈良へ旅する。夏の奈良は盆地特有の暑さで、寺から寺へ仏像をデッサンして歩くのは辛かったが、唐招提寺のシャープな美しさに魅了され、すつかり 奈良が好きになり、将来 奈良に住みたいと思った。このころから漂泊の旅に憧れる。
昭和四十年 卒業制作の油絵200号を描く。武蔵野美術大学卒業。
昭和四十五年 俳句結社「河」の城西支部の句会に出席していた母を迎えに行き、角川源義に初めてまみえる。
昭和四十六年 「河」入会。角川源義の指導を受く。
昭和五十年 角川先生逝去。
ハリーポッターbooki 7で死ぬのでしょうか?
昭和五十二年 結婚。東京中野に住む。七月、父逝く。
昭和五十四年 進藤一考主宰「人」に参加。同人となる。十一月、横浜に移り住む。俳人の鳥居おさむ・美智子夫妻と親交を深める。
昭和五十五年 第一句集「山の夢」(一日書房)刊行。上田五千石の風貌と肉声に初めて接する。美大の後輩でもある俳人、中村堯子と出会う。堯子と静岡に五千石を訪問。上田日差子を知る。
昭和五十八年「人」を退会。無所属となる。私の俳句の放浪が始まる。石田勝彦に初めてまみえる。俳句結社「泉」の「雲の会」に時々参加し、石田勝彦、綾部仁喜の指導を受く。石田いづみと親交を深める。
昭和六十年 第二句集「火のいろに」(牧羊社)を刊行。このころ、 西村和子、片山由美子と鎌倉に吟行したことは思い出深い。
平成二年
長谷川櫂、千葉皓史と三人で同人誌「夏至」を刊行。夏至同人となる。藺草慶子、石田郷子、山西雅子、岸本尚毅、岩田由美、木村定生、中西夕紀らの若い俳人と出会う。「均一句会」を指導。
平成六年 第三句集写「雲の塔」(花神社)を刊行。長谷川櫂主宰「古志」に入会。
平成七年 矢島渚男主宰「梟」に入会。
平成十年二 無所属となる。十二月、母逝く。
平成十二年 乱詩の会に参加。短歌に興味を持つ。
平成十三年 第四句集「火球」(ふらんす堂)刊行。
平成十五年 俳句の勉強会「ミントの会」発足。詩人の白石かずこらと「ユリシーズの会」発足。
0 コメント:
コメントを投稿